批評や評論について、
「愛情がある」「愛情がない」という言葉で語るのは、
あまりにも安易で、退屈で、
そんなことを言う人のことを、わたしは信用しない。

愛情、と、簡単に言うけれど、

ただ「好き」という気持ちを書くのは、愛情じゃない。
それは、ただの、思い込みの一方的な恋情であって、
そんなものをもとに文章を書くのは、
相手に無理矢理自分の体液をなすりつけるような、
そういう行為だ。

わたしは、自分でそう思うのだけれど、
そういう一方的な恋情でものを書くことは、得意なほうだと思う。 
批評とか、評論なんて、とても呼べない、
ただそのものが好きで好きで、自分だけがそれをいちばんよくわかっていて、
自分がこの世で誰よりもいちばんそれが好きなのだと、
独占欲をむきだしにして、
無抵抗な対象物に、爪を立てて噛み付いて歯形をつけて、
「これはわたしのものだ」と、宣言するような、
そういうなんとも下品な文章が、とても得意で、 
好きであることは事実でも、こんなものは愛情ではないのだと、
常々思っている。

岡崎京子の研究』という本があって、
この本は、その膨大な情報量と、
あまりにも綿密な調査内容で驚かれている、
歴史に残る重要な本だと言えるのだけれど、

わたしがこの本のことをとても好きなのは、
この本が書かれた動機が、まるで愛情のように見えるからだ。

こうした技術的にも内容的にも素晴らしい本に対して、「愛情」などという、
感情的な言葉を使うのは、
まるで汚しているみたいで少し気がひけるのだけれど、

対象を、可能な限り調べて、可能な限り詳しく知り、

思い込みや思い入れ、単なる推測じゃなく、
可能な限り「正しく」理解し、表現しようとするのは、
本当の動機が何であれ、
はたから見れば、もうそれは「愛情」に等しい、高潔な意志だと思う。

対象物に、自分の思い込みを押し付けず、
思い入れの言葉をぶつけず、
徹底的に事実を積み上げたうえで
遠慮がちに「こういうことなのではないか」と、理解しようとするのは、

わたしが知る限り最大の、
至上の愛、のようなものに見える。

それがにじんでいるように見える文章が、二箇所ほどあって、
心の皮がぷちっと破れそうになった。

息の抜けない日が少し続いて、
アイスティーとオレンジジュースを買って帰って、
グラスに氷を入れて、オレンジティーを作って、
ひとくち飲んだ瞬間、
「あ、これサンキストのオレンジジュースだった。わたし、トロピカーナじゃないといやなのに」
と思って、
やっと日常が戻ってきた感じがした。

夜、窓の外を見ると、遠くに花火が見えた。

音は聴こえなかった。 

打ち合わせに指定された店に行くのに、
百貨店の中を通った。

品良く冷房の効いた店内をまっすぐ歩いていると、
視界の隅に、なにか見覚えのある色が見えた。

昔、好きだった男のひとが、一度だけプレゼントをくれたときの、
その箱の色だった。

足は止めず、まっすぐ前を向きなおし、
つま先に神経を集中して、歩く。
その店の方向は決して見ない。

帰りに別のフロアに入ると、
昔、自分が使っていた香水の香りがした。
あまりどこにでもは売っていない、
男でも女でも使える香りの。

その品物がどこにあるかは見ない。
探さない。
確かめない。

足は止めず、振り向かない。 
わたしはけっして振り向かない。
いつどんなときでも、絶対に。 

外に出ると、すべてを真っ白にするような、
強い夏の陽射しが待っていた。 

あれは確か27歳ぐらいの頃のこと、
わたしと、同じ歳の女性編集者は、
出張先の大阪のホテルの部屋に缶ビールを持ち込み、
ベッドに座ってそれを飲んでいた。

ほとんど飲めないわたしの10倍ぐらいのペースでお酒を飲んでいた彼女は、
ふと、キッ! と真剣な顔をして、こう言った。

 

「わたし、30過ぎても絶対に、『和の趣味』にだけは、はまらない!」

和の趣味。それは、当時のわたしたちにとっては

「猫を飼うと婚期が遠のく」というあれと同じくらい、
「はまったら最後、そこに時間もお金も労力も費やしてしまい、恋愛も婚期も遠ざかりそう」と思える、おそろしいものだったのだ。

それから数年が過ぎ、30を過ぎてもわたしは「和の趣味」には特にはまらずにいた。
まわりではまっている友達が、
「洋服ははまってもたかが知れてるけど、着物ははまると家が建つ金額が飛ぶ」
などと、おそろしいことをささやいてくるので、
自分には縁のない世界なのだろうな……とぼんやり思うのみであった。

雲行きがあやしくなってきたのは、今年からである。
夏前に風鈴を買ったあたりから、こう、歯車が狂いはじめたような気がする。
風鈴を買い、
いいなと思った有田焼の蕎麦猪口を4種類「全部ください!」とおとな買いし、 
旅先の金沢で九谷焼っていいな〜などと思いはじめ、
そのあたりから「和食器」に関しては、もう堤防がただの砂で作った山のごとく
ザザザーッと音をたてて崩れ去った。

そこに、夏の到来である。

思えば、小さなきっかけがいろいろあった。
まず、水着を見ようと伊勢丹に行ったら、同じフロアにゆかたが売っていた。
欲しい水着がなかったので、余った時間でついゆかたを見てしまった。

ゆかたを着たことは、なかったわけではない。
安い適当なのを買って、花火大会とかに着たことはあるし、

毎年一度や二度は着ている。
でもそれは「東急ハンズで買ったコスプレ衣装」みたいなもので、
「ちゃんとしたゆかた」ではないのだった。

「ちゃんとしたゆかた」は、わたしには敷居が高かった。 
まず、どこに行けば自分の好みのものがあるかまったくわからない。 
そして、洋服と違ってどんな柄が似合うのかもよくわからない。
常識的な値段がどのくらいか、見当もつかない。

しかしそこに、ロンドン五輪の開会式がたたみかけてきた。
オリンピックの選手入場で、おそらく全人類が感じるであろう真実、それは
「民族衣装って、やっぱ鉄板だな」ということだ。

「欲しい水着が見つからず」「でも夏だし」「民族衣装は鉄板」
それらの細かいいろいろが積み重なり、わたしはインターネットで友達に
「ゆかたが欲しいと思っていて、いまどきふうのチャラチャラしたのではない、なるべく普通の和風の柄のがいいんだけどどういうお店に行けばいいか」
と質問してみた。

そうすると、もう、その筋の道にしっかり足を踏み入れて足場を作ってる猛者たちがアドバイスしてくれるわけである。
「この雑誌にかわいいのが載ってますよ」
と教えてもらったので、仕事で外に出られない間にamazonで注文してページを開くと、
もう後戻りできない世界がそこにはひろがっていた。

話には聞いていたものの、こんなに色柄のうつくしい世界だとは……。 
柄のモチーフも、朝顔にひまわり、百合、クレマチス、波に燕にとんぼと、
ルネ・ラリックの時代のような豊かな自然モチーフ。
そしてやはり、いいものは一目でわかる感じに、もう絶対的にいいのである。

「やっぱりお仕立ては全然違う。仕上がりが綺麗」
「でも今からだとこの夏は間に合わないかも」
「反物はここのが柄が素敵」
などの情報を耳に入れるたびに、
予算が倍々ゲームで跳ね上がっていく、福本伸行ばりの世界がそこには待っていた。

しかし、ちょっといまはいくつものお店を回って、ゆっくり柄を選んだりする時間がないし、
わたしはこういうことに待ったなしの性格なので、いまゆかたが素敵だと思ったのなら、いま着たい。

身の程を知りすぎているのが、自分の人生で退屈なところだなとときどき思うけれど、
ただでさえ知らない世界に腰がひけているのに、
ここでデカい金額をつぎこんで、いきなり出足で失敗したら、
(柄の好みだけで選んで、似合わないものを買ってしまうなど、すごくやってしまいそうだ)
つぎに「ゆかたを買おう」と思うまでには五年ぐらいかかりそうである。
とにかくこっちはなにがいいものなのかも全然わからない素人なのだ。
わたしはとりあえず、もし汚したとしても再起不能にはならないであろう金額の、
プレタポルテのゆかたをサクッと買おう、と思い、
徹夜明けのまま、目をつけていたゆかたのお店に行ってみた。

ネットで目星をつけていた柄をいくつか出してもらい、試着する。
洋服よりもずっと布の面積が大きいので、 
着替えたときの、印象の変化がダイナミックだ。
ああ、こういう世界を、みんな見ていたわけなのね、と、
和服に魅了されてひと財産つっこんでいる友人たちの趣味の深さの片鱗が、
ほんのちょっとだけ見えたような気がした。

どうせプレタポルテのゆかたなのだし、
気楽に、気分が晴れるような好きな柄のを選んで、
合わせて帯も見立ててもらい、
配送をたのんできた。

帰り、自分でも思っていた以上に浮かれていたらしく、
線香花火のいいやつも買ってしまった。

まだ常識すらわからない世界だけど、ゆかた、楽しそうで浮かれてる。 

あっという間に夏がきてしまった。
心に余裕がなくて、新しい服も、新しいサンダルも、水着も浴衣も買っていない。
旅行の予約や、海や花火大会や、そういう予定も立てておらず、
全部したいのに全部はできず、焦るばかり。

打ち合わせと打ち合わせの合間にヘアサロンに駆け込んで、髪を切ってもらっていたら
偶然、神宮のナイターの花火が見えた。 
ああ、こうして、目の前の夏を楽しんだほうがいいな、と
がさがさに疲れた心のままで思って、
腕のよい美容師さんになんとか内面のぼろがわからないように髪をととのえてもらったら、
少しは夏に対する意欲がわいてきた。

遠くに行く時間はとれなくても、
そういえば、よく新宿近辺をうろうろしているのに、
入ったことのない有名なジェラートのお店があった、と思い出して、
待ち合わせまでの空き時間に行ってみた。

大人なので、迷わず3種類盛大にコーンに盛ってもらい、
外を見ながらぼんやりジェラートを舐めた。
はやりものが好きなので、このお店のことは、新宿にできる前から知っていたのに、
入ったことのないまま何年過ぎていたんだろう、
ジェラート大好きなはずなのに。
もしかして、本当はわたしは、はやりものもジェラートも、たいして好きではないのではないか……。 
と、アイデンティティの危機までおとずれそうになりながら、
少しずつ陽が落ちてゆく新宿を見ていると、
いかにも夏の光の加減がなんともいえずいい感じで、
ああ、こういうのいいなぁ、とコーンをかじっていたら、
ワンピースにジェラートがぽとりと落ちた。

ああ……(がっくり)。

 外を見ていると、かっこいい帽子にシンプルなシルバーのピアスを合わせて、
今年のサンダルを履いてる女の子が歩いてる。
わたしも、ゆっくり足に合う、気分に合うサンダルを探したり、
着たことのない服を選んだりしたい。
浴衣は、間に合わなければ来年でもいいし、
水着はもうすこしネットで粘って探してみよう。

夏が好きすぎて、この季節は、一日一日が過ぎていくのが、惜しくてたまらない。
二ヶ月だけしかつきあえないとわかっている相手とつきあっているみたいな、
そんな感じがする。

ガラスの風鈴を買った。一週間以上前から欲しいと思っていたもの。
何色にするかしばらく悩んで、音をたしかめ、淡い緑色のものにした。 

 

夜、家の近所で食事をして、

駅まで友達を送っていく途中、古着屋さんのショーウインドウに
ヴィンテージの革のバッグが置いてあるのを見た。

友達を送ったあと、駅からまっすぐ古着屋に引き返す。

夜10時を過ぎていたのに、まだお店は当たり前のように開いていた。

 

たぶん、値段はこのくらい。と思った値段と、500円しか違わなかった。
すぐにレジに持っていくと、化粧が濃くてありえないほど綺麗で、背の高い女の店員さんが
「一目惚れですか?」

と訊くので、
「はい」
と答えた。

 わたしは、欲しいものに対して、わりと容赦がないと思う。
今週のはじめには、金沢に行って、
入った喫茶店で見かけた花瓶がかわいかったので、
翌日またその喫茶店に行き、
「あの花瓶は、どこかで買えますか?」
「どなたの作品ですか?」

と訊いて、取り扱っているギャラリーを教えてもらい、

そこに直行し、在庫がないとわかると、
入荷し次第メールを送ってもらう約束をして帰ってきた。

家に帰ったら、親に買ってきてと頼んでおいた有田焼の蕎麦猪口が届いていた。

ものに対しては、どこまでも、簡単に貪欲になれる。
いくらでも追いかけられるし、

「これはわたしの家にあるべきもの」
「これはわたしのためのもの」
「気に入ってずっと使い続けられるもの」
だと、すぐにわかる。

一瞬だけ考えて、すぐに手を伸ばせる。
手放すときも、ほぼ迷わない。

相手がものでなく、人になると、どうしてただ触りたいだけでも手を伸ばせないんだろう。

ものはぜんぜんこわくないけど、人はこわい。

ものを扱うときに、手が震えたりしたことはない。

 

どんなものでも、手に入れていちばん楽しい瞬間は、

家に帰って包装を解く瞬間だ。

そういうときの自分は、
征服欲とか所有欲に満ちた、

いやらしい顔をしてるんだろうなと思う。 

このまえ、風林会館のパーティーに行って、
生まれて初めて、知らないひとにおごってもらったショットを連続で飲んで、
生まれて初めて泥酔した。
そして、普通の人なら二十歳そこそこで経験するであろう、ファースト以前のアルコールによるサマーオブラブをいまさら経験してしまった。 

金髪のショートヘアの女の子が、ビスチェ姿で踊ってるのがかっこよくて、
その女の子にビールをおごって、

「すごいかっこいいね」って言って「ありがとう!」って言われたり、
知ってるひとや知らないひとに抱きついてまわったりした。 

 

フロアでtofubeatsの「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」が鳴った瞬間、
この場所の、この瞬間の、この音楽の、ここにいるひとたちの全部に、強烈な恋におちた。

この歌が、いまの状況のことを歌った歌ではないことは知ってる。けど。

夜が明けるそのときまで踊り続けることがどんなにいいことか、そんなもの、説明できるわけない。
素晴らしいから禁止するなと、言えるわけない。
恋愛やセックスがどんなにいいことか、どんなに素晴らしいか、ふだんの言葉では言わないのと同じで、
そういうことの素晴らしさは、心から好きなひとや、大事な友達に、そっと打ち明けるようにしてしか、伝えられないことだ。

そんな、心の中にずっとずっと死ぬまで大事にとっておきたいような幸せな瞬間のことを、
大声で説明しなきゃいけないような状況になっていて、
その瞬間を愛しているひとほど、大きな声をあげなければいけないようなことになっていて、
ものすごく大切な、ものすごく個人的な、素敵な瞬間のことを、
こんな状況で、大声で説明しなければならないなんて、
そのこと自体が暴力みたいだと思う。

たとえば、
「家族がいることは素晴らしい、家族を愛することは素晴らしい」って言ったら、

素晴らしいならその素晴らしさを説明するためにみんなにアルバム見せろって言われてるみたいに感じる。 

あれからずっと毎日、tofubeatsの音楽を聴いてるけど、
誰にも言えなくて、受け入れてもらえなかった気持ちを、
確かにそこにあったものだと言ってくれるような、
そんな音楽に聴こえる。
たとえば、成就しなかった片想いとか、
誰も証人のいない、出来事としてはなにも起こっていないような、
でも自分にはとても大事な気持ちを、
「それは大事なことで、大きなことで、大切だと思っていていいんだ」
と、 
「くだらない、つまらないことでも、それを大切だと思ってもいいんだ」

と、
とろかすような音で鳴らしてくれる。 

泣きそうに好きだと思う気持ちなんか、知らないひとに言いたくない。
言えば涙が出るから、言いたくない。