去年、震災のあと、ageHaに何度か行ってた。

大きなクラブでチャラチャラした人たちをたくさん見たかった。
上品で趣味がいいことなんてどうでもよく思えた時期だった。

ageHaには、バーカウンターのところにポールダンサーが出る日がある。

お酒を買いにフロアから出たら、ちょうどポールダンスが始まるところで、
見ようと思って近づいたら、
わたしの前に、魂を抜かれたような顔をして、食い入るようにポールダンサーを見つめている若い女の子がいた。

若い女の子は、ギャルっぽい感じの子だった。隣にいる業界人ふうのおじさんと一緒に来ていたらしい。
おじさんは、わかったような感じの顔でポールダンスを見ていたのだが、
女の子は、ポールダンスが始まった瞬間にそのおじさんのことなどどうでも良くなってしまったことが、手に取るようにわかった。

すごい目で見ていた。

気持ちがわかりすぎて、抱き合いたかった。その女の子と。

肌を見せる格好をして、色っぽく踊って、

でも男に媚びたりしてなくて、
生まれつきの顔や身体の美しさなんかとはまったく関係ない、

別の次元の美しさを振りまくダンサーが、
どんなに希望を与えてくれるか、

そして、観る側に
「あなたはどんなふうに生きてるの?」 
「どういう美しさを、あなたは求め、獲得していくの?」

と問いかけてくるか、
わたしはそういうことを知ってる。

 

「どうでもいいことなんか今すぐ切り捨ててしまえ。

選びとったものだけが、自分を美しくしてくれるんだ」

 

そう言われているような気持ちになる。

でも、とか、だって、とか、言い訳は通じない。

それは美しくないから。 

女のからだは、めんどくさいことが多いなと思う。
好きこのんでこんなふうなめんどくささをしょいこんでるわけじゃないのに、と思うこともある。

鍼灸の先生が、
「女の人は、だからこんなにやわらかい身体でいられるんだよ」
と言ってくれて、
やわらかいからだがもともと好きか嫌いかにはかかわらず、
わたしは好きでいようと思った。


愛さなければやってられない宿命みたいなものが、ひとにはたぶんいくつもあって、
受け入れがたい、絶望的に思える欠点のようなものもあって、
長く苦しい戦いの末に、やっとそれを受け入れられるときが来るのかもしれないと、ときどき思う。
今はとても受け入れられる気がしないような欠点であっても、
それを直すことがどうしてもできなくても、 
自分の、どうしようもない特徴として、受け入れられるときが来たり、するのだろうか。

たとえば、わたしは、マンガが好きなのだけど、
自分の好きなマンガと、いいと思うマンガは、違っている。
「いいと思うマンガ」は、客観的に見てすばらしいと思えるもので、もちろん好きなのだけど、言うなれば友達に対する「好き」に近くて、
「好きなマンガ」は、あきらかに欠点があったり、人にすすめることはあまりできないようなものだけど、自分の中ではもうどうしてもそれが好きで好きでたまらないというマンガだったりする。
好きなものの欠点は、欠点じゃない。欠点だとわかっていても、マイナスにならない。
それが好きという気持ちに影を落とすことは全然ない。
その欠点や偏りも含めてそれは「完璧」で、「これ以上」なんていうことはない。

 

そんなふうな気持ちで、自分のことを受け入れられるときが、いつか来るのだろうか。
「めんどくさいからだだからやわらかい」みたいに、
「悪い男だから魅力的」みたいに、
自分の欠点を、あってよかったものと、思えるんだろうかと思う。 

今月もカードの利用明細が届く。
わたしはこれを開くのがちょっとだけこわい。
金額にビクビクするのも確かだけど、それより、
いつ何を買ったのか、思い出すのがこわい。 

タイミングによっては、二ヶ月ぐらい前の買いものが載っていたりする。
いつ、どこで、何を買ったか、思い出すと、
そのとき自分がどんな気持ちで、なにを求めていて、

それを買ったのか思い出してしまう。

ものを買ったところで、自分が変わるわけではない。
そんなことはもうとうの昔にわかっていても、
もしかしたら、少しくらいは、
気分だけでも変わるんじゃないか。
素敵なものを身につけた自分は素敵になれるんじゃないか。
そんなふうに思い、買っている。
 
欲望を希望に見せかけてものを売るのはファッション業界の定番だけど、

変われるかもしれないと思って買うその行動は、希望に見せかけた欲望なんかではない。
今の自分ではない、誰かになりたいとか、
こんなふうな自分だったら、ひとに受け入れてもらえるかもしれないとか、
そんな気持ちで、
そんなことを思うからには、
自分自身のままで、誰かや何かに拒まれたり、

受け入れてもらえなかったりしたことが、そのときに起こっていることが多い。

そんなことを明細にプリントされた文字から思い出すのは楽しいことではないし、
不快な感じに胸がドキンとする。 
 そんな気持ちで、ときに分不相応な金額の買いものをする自分を、愚かだと思う。

なにかを欲しい、と思う気持ちは、せつないものだ。 

木嶋佳苗が夢に出てきて、
「わたしのように生きなさい」

と、ご神託のようなことを述べた。

「わたしのように、欲望のままに買い、欲望のままに男と寝なさい」
と、つづけて言った。

「本当に欲しいもの、どんなに努力しても、手に入らないものはある。
あなたにもあったでしょう?
何を犠牲にしてもいい、すべてを失ってもいい、というほど強く願っても手に入らなかったものが。
だったら、手に入れられるものを手に入れて、なにが悪いの?」

目覚めて、すこし泣いてしまった。

わたしは、この事件について、木嶋佳苗本人について興味を持っているわけではない。
東電OL事件のときと同じだ。
事件そのものではなく、事件をきっかけに浮かんでくる恋愛やセックスや男女の違いのようなものに、心を引き込まれているのだと、自分でもわかっていた。
わたしの夢に出てきた木嶋佳苗は、本物の木嶋佳苗とは、あたりまえだけど違う。

起きてから、わたしはいったい、どれほど自分の欲望を抑圧しているんだろう、と考えた。
買いたいものを買わない、寝たい男と寝ない。
その理由はなんなのだろう。
どうしてその気持ちを抑圧するのだろう。

それは、なにかを奪われていく感じがするからだと思う。
欲しいものを買っても、自分の生活に見合わない高い金額を奪われたような気持ちになることがあるし、
男と寝て、そのことで自信を失ったり、心が傷ついたりすることもある。
仕事をしてやっと得たお金が、一瞬でなくなってしまったり、
心を受け入れてもらえなかったり、
からだがごっそり、半分ぐらい、なにかと引き換えにもっていかれたような気持ちになることがある。

欲しいものと引き換えになにも奪われず、ただなにかを「得て」いくだけの人のことが、わたしはうらやましいのだと思う。 

わたしは自分が凡庸であることに自信がある。
子供の頃は、頭の良い人になりたかった。
成績がいいとかではなくて、頭の良い人。
たくさん本を読んだりしてみたけれど、自分には読めない、読んでも意味がわからない本がたくさんあることがわかっただけで、頭が良くはならなかった。
頭が良くなるための努力を続けるのはしんどかった。

自分に特別な才能がないことも、わりと早くから気づいていた。
ないんだろうな、と思ってた。
努力で何か、すばらしいものが開花する予感なんて、なかった。

いろんなものに憧れた。
素敵な部屋に住んで、センスの良い服を身につけて、すばらしいものを書いて。
いろいろがんばってみたけれど、いまだにわたしの住んでいる部屋は素敵というのにはほど遠い感じだし、
服もぱっとしない。
書くものも、ずば抜けてすごい何かはない。飛んでくる球をとりあえず打って、当たったけどファウルみたいなことばっかりだ。

だけど、素敵な部屋に住みたいとか、
センスの良い人になりたいとか、
文章を書きたいとか、
そういうことに関しては、繰り返し繰り返し何度でも失敗しても続けることを、むなしいと思わない。
死ぬまでやり続けて、その到達点が、生まれながらに才能のある人の到達点に遠く及ばないだろうとわかっていても、ぜんぜんむなしくならない。
むしろ、それまでできなかったことが、少しずつできるようになっていくことに、快感がある。
最初からできる人はあたりまえにできていたことであっても。

積み重ねをむなしいと感じずにいられる世界があるのはいい。
そういうことをたくさんもっているひとの人生は、豊かなんだろうなと思う。 

タトゥーを入れたいな、と、ときどき思う。
ピアスやタトゥーを入れることは、強さへの憧れ、みたいな分析には基本同意する気持ちはあるけど、
わたしが思うには、それは他者に対しての強さの誇示ではなく、
自分自身に対する表明に近い。
誰かが、タトゥーやピアッシングなどの人体改造のことを「模様替え」と表現していたが、それよりもしっくりくる言葉に出会ったことがない。
自分に見える、常に自分とともにある、自分の肉体を模様替えするのだ。
どれほど気分が変わるか、想像できるだろうか。
 「後悔しないかどうかよく考えろ」
という問いは、意味をなさない。
今どうしても気分を変えたい、変えなければ生きていけない、という切実な気分転換もある。
もっとも「後悔しないかどうか」という問いは、
基準を「他者にそれが原因で排除されたり、拒否されたりすることのある行為をして、後悔しないのか」というところにおいていることが多いので、
その気分転換が切実なものであろうとなかろうと、意味をなさないものだと思うけれど。

わたしはときどき、タトゥーを入れてみたいという気分になるので、
過去にも何度か、入れようかと思ったことがある。
あるときに、何気なく「タトゥーを入れようかな」と口にしたところ、

男のひとに反対されたことがある。
男によっては、そういうの萎えるからやめたほうがいいんだと。

それはその通りだと思うけど、
軽蔑と嘲笑がこみあげてきたのを覚えている。

この男のひととは、つきあってなどいなかった。
でも、彼は自分がときどき見るわたしの身体のことに、
一般論として、そういうふうに口を出したのだった。

いったい、わたしは、
女は、
世間の男たちの望む
「こうでなければ欲情してやらない」
という基準を、
いくつクリアし、
いくつ厳密に守り、
口をつぐんで欲情されるようにがんばらなくてはならないのだろうか。

こういう髪型はダメ、
こういう服装はダメ、
こういう化粧が好ましく、
こういう言動が良いとされることを、
ひとつも取り入れず生きている女は、どれだけいるのだろうか。

そんなものを意に介さない男もいることは、わかっている。
でも、実際は、そのような「世間一般の基準」を持った男のほうがずっと、扱いやすく簡単なのだ。
そういう男を心から好きになることはない。 
つまりわたしは、軽蔑している男としか遊べないのかもしれない。

「世間一般の基準」を持たない男は、ほんとうのわたし自身がどういうものであるかを詮索し、査定するだろう。
わたしはそのことが怖い。
「世間一般の基準」からはずれているとか、「世間一般の基準」で見たら女として価値がないとか、
そんなことは今まで何度も言われ続けてきたことだ。
平気にはならないし、傷つかないわけでもないけれど、耐えられないことではない。自分自身よく知っていることだ。
でも、その男の基準で「価値がない」と判断されるのは、つらい。
好きになった男であれば、神様に否定されたように感じるだろう。

わたしはAVを観ているから、
一般的な男のひとが、どのような基準をクリアした女に欲情するのか、
人よりは少し詳しいつもりだ。
その仕組みに乗っかったほうが、うまくやっていけるんだろうとも思う。
ある程度器用にそういった他人の価値観に自分を合わせることもできる。
儀礼的に割り切って、葬式で喪服を着るように。 

だけど、合わせられない部分もある。
わたしにはそれが「曲げられない自分自身」「ほんとうの自分の魅力」なのだとはとても思えず、
ただ、曲げようとしてきれいに曲げられず、変な形に歪んでしまった、
金属のごみのように思える。 

『ミレニアム2』、けっきょく上巻の半分読んだところから始めて、一日で読んでしまい、お急ぎ便でも待てないと思って『ミレニアム3』上下巻を本屋に買いに行った。
意外と、というか、女の戦いの物語で、
(女と社会との戦い、という意味も含まれる)

修羅雪姫、というタイトルでも合いそうなくらい。

キル・ビル』という映画が公開されたときに、

「なぜレイプシーンがないんだ。観客の全員がこの復讐に怒りを燃やすための動機づけとして、あるべきだろう」

という意見があったが『ドラゴン・タトゥーの女』には、ある。
「あんな奴殺してしまえ」と思わせるようなシーンがある。
『ミレニアム2』にも、あるのだ。他の男で。レイプではないけれど。
脇役の女性たちが受けるセクハラ、パワハラ描写もなんだか細かいし、
今のところ、女のハードボイルドを描こうとしているように感じている(まだ3は読み終えていない)。

週末は、薔薇を見に行った。
夜中、夢みたいな光景を見た。