鬱病未満の鬱屈とした人生に

春日武彦先生の『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)という本が出た。



春日武彦さんのほかの本を読んだことがない人にとっては「ふうん」という感じのタイトルかもしれないが、

読んだことのある人には、かなり衝撃のタイトルである。
「あの、明晰で、ちょっと皮肉屋で、占いなんていちばんバカにしてそうな春日先生(一部偏見です)が、占いに!?」
タイトルを見たとき、ものすごい不穏な空気を感じた。
「あんな人が、占いにすがるなんて、よっぽど弱っていらっしゃるのでは……」
怖かった。

開いてみたら、自分のための本だった。

冒頭を引用してみる。

「不安感や不全感や迷いーーそういった黒々として不透明なものが心の中に広がってくると、耐え難い気分になる。我慢にも限度があるし、努力で乗り越えられるくらいならばそもそも問題にならない。無力感と苛立ちとよるべなさに、打ちひしがれる。

 気分転換を図ろうにも、それが気休めに過ぎないことが分かっているから踵を返してしまう。いっそ心の病気であったなら、よほど割り切ることができそうだが、病的ではあっても病気ではないらしいところがかえって出口のない事態に思える。向精神薬を服用することで、抗生物質が細菌を駆逐するように心の中の不透明なものを払拭してくれればいいのに、そんなハッピーな顛末など期待できないことは、仕事柄、熟知している。」
(※タイトルでおわかりでしょうが、春日武彦さんは精神科医です)

このあとに、物欲や性欲のあるうつ病は医学的にありえない、という話が続く。「病気ではない病的な生活」のつらさと、それを解消するための春日先生の試行錯誤と自己分析が続けて書かれていく。

わたしは、自分がまさしく、このような状態である。
物欲も性欲もある。元気なときは動ける。しかしだめなときは家から出られない。
ただの怠け病とか、気分の問題でしかないのだ、と思うから自分を責める。
楽しみにしていたことでさえ、出られないときは出られない。無駄にしたチケット、キャンセルした飲み会、お世話になっている知り合いのイベント、そういうことを思い出すと罪悪感ともったいなさで死にたくなってくる。
でも、「取材に行けなかった」ことはないので、病気ではないと思う。
化粧もできないまま、家を出るのが嫌でぐだぐだしていても、タクシーに乗ってでも取材にはなんとか行っている。

自分のだめさには、甘えがあるし、春日先生とは違うとはっきりわかるけれど、
それでも、春日先生の通ってきたきつさ、しょうもないけれどこたえる出来事のディテールを読むにつけ、
たまらない気持ちになる。

人が落ち込んでいるときに、
「なんでそんなことで」と言う人がいる。
それが効くときもあるけれど、
たいていの人のダメージは「なんでそんなことで」で起こるダメージなんじゃないかと思う。
その「なんでそんなことで」の詳細が丁寧に解きほぐされ、分析されていく。
わたしにはその過程が、「なんでそんなことで、人は生きる気力を失いかねないほど落ち込んでしまうのか?」という問いに近いと思えるし、
それはそのまま、
「人はなぜ、何のために生きるのか」という問いに近いと思える。

内容はもちろんのこと、春日先生の筆致が、今回は特に素晴らしい。

自分の恥部をえぐるような話を淡々と書かれている。
淡々と真面目な文章なのだが、それがすごいユーモアになっていて、
「書き手には『精神科医枠』というものがあって、自分はそれに入れてもらってるだけだ」というような内容の箇所など、笑ってしまった。

精神科医枠なんかじゃない。書き手としてすごい。
わたしのような、甘えて鬱々とした人間は、
季節の変わり目だから死にたくなると言い、
5月だから死にたくなると言い、
日差しがまぶしすぎて死にたくなると言い、
冬は冬期うつが来るなどと年中ほざいているが、
この冬はこれを読んでいればいいのだ。