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もうだいぶ日が経ってしまったんだけど、ペヤンヌマキさんの劇団ブス会*の「女のみち2012」という舞台を観た。

これは、6年前の「女のみち」という舞台の続編で、
AV女優の、AV撮影中の楽屋で繰り広げられる物語だ。
その6年後という設定になっている。

6年前にトップ取ってた女優が、熟女女優として復帰してたり、

結婚や出産をして復帰し、女優としてはもう仕事が減ってきてるから、モデルプロダクション経営に鞍替えしようとしてる女優がいたり、
熟女系だけど技術と特技(いつでも潮吹きができる)で仕事が途切れない女優がいたりする。

女同士の、どっちが若いとかどっちが美人とか、どっちが人気があるとか、

子供産んでるか、結婚してるかとかで「どっちが上か」を測り合う絶妙な会話が面白いんだけど、
「ロリ系でデビューしたんだけど、引退して、熟女系で復帰してきた」という設定の女優が、
「自分で潮吹きできます!」とハッタリかましたのに、全然潮吹きできなくて泣き出す場面で爆笑が起こったときから、涙が止まらなくなってしまった。

確かに、「自分で潮吹きができない」なんてことで泣くなんて、普通に考えたらおかしなことなんだろう。
そんなことができないなんて悩んでるひとなんて、ほとんどいないんだろう。

でもわたしは、女優さんに取材していて、
「淫語ものの撮影で、全然アドリブができなくて、できない自分がくやしかったからAVいっぱい借りて、淫語をノートに書き出して勉強した」とか、
「痴女ものでうまく動けなくて、納得いく作品にできなかったから、他の女優さんの作品を観てどうすればいいのか練習した」とか、
そういう話をほんとに聞いているし、
AVの世界がいまどき、「ちょっとかわいいぐらいでいくらでも仕事が来る」世界じゃないことも知っている。
何か特色とか、突出したなにかや、テクニック、魅力がないと売れ続けるのはとても難しい。
どんなに「人気が欲しい」と思っても、どんなに努力をしても、やればやったぶんだけ「返ってくる」世界でもなかったりする。
そして、どんなにがんばっても、トシは取るし、若さや美しさという「AVの世界での女としての価値」は、失われていくものなのだ。

他人事だったら、きっと笑えるんだろうと思う。
わたしだってほかの場面ではたくさん笑った。

笑ったけどずっと心が痛くて、そのシーンから先は、ずっと笑い声を聞きながら、泣きっぱなしだった。
ハンカチがびしょびしょになるくらい泣いた。

わたしはAV女優じゃないけど、女だから、
女としての価値をジャッジされていると感じる場面はいくらでもある。
どんなに仕事をがんばろうが、きちんとした生活をしていようが、
そんなもの「劣化したよな」の一言でふっとばされるような、

恐ろしい毎日を送っている。

どうでもいい他人の「劣化した」の一言なら、
なんとか無視できるかもしれない。
でも、じゃあ、もし好きな相手に、
セックスや恋愛の対象として見られなくなったら、どうなんだろうか。

ペヤンヌさんの舞台は、女のことをかなりシビアに、シニカルに描いている部分があるけれど、
その根底には、「女」であることが他人事じゃないという視点がある。
「AV女優」を題材にした、ということが特殊なことのように言われたりもするけど、
「AV女優」というのは、「女」であることの価値を常にジャッジされている「女」の象徴なだけであって、
なにも特殊なことなんかじゃない。
「この女優、カラダはいいけど顔がいまいちねぇ」

「がんばってんのはわかるけど、こっちの方向性あんま似合ってないよねぇ」
わたしがAVを観て、 無責任に吐くそういった感想は、
もれなく、ブーメランのように自分にも返ってくる。
値段として表示されないだけで、でも値踏みされているし、
その価値は年々下がっていく。

観ている間、この6年間のことをいろいろ考えた。
大好きな女優さんがたくさんいた。
辞めていったひと、AVでがんばりすぎて折れてしまったひと、
変わらない輝きでいきいきと仕事してる天才肌のひと、
いろんなものを見た。

そういうのは全部、外の世界から見たら、
「AVなんかに必死になってバカみたい」に見えるんだろうなと思うと、
そりゃそうだろうなってわかるけれど、
「でも、そんなバカみたいなことを、みんな必死でやってんだよ!」って
たまらない気持ちになった。
それは、AVだけの話じゃなくて、
女の人生の話に置き換えても、同じだと思う。

きれいごとのおためごかしじゃなく、
そんな現実の残酷さや絶望を描き出すだけじゃなく、
「でも、わたしたち、生きていくよね」
「負けないよね」
「しぶとくやってくんだもんね」
って、
「泥だらけでも恥ずかしくても情けなくても、
しぶとく生きていこうよね」
「それだけが『女のみち』だよね」
って、
情けない、やりきれない、ばかばかしくてこっけいな人生の中の、
ただひとつの、嘘のない希望を、
ペヤンヌさんは描いていて、
ああ、こんなすごいものが観れてよかった、
こんな、ひとの気持ちを正面から救ってくれるような、
正面から来る表現を観れてよかったと、心から思った。

ひとが傷つき、悩んでることって、
たいていは他人から見れば「しょうもない」ことだったりする。
一生に一度の恋愛だって、他人から見れば、
「なんであんな男に?」だったりもする。
それを全部バカにしてたら、人生で真剣になれることなんて、ひとつもない。
自分でも、バカだな、情けないなって思うようなことを、
真剣にやって、傷ついていく人生のことを、
こんなふうに肯定される気持ちになるのは、ペヤンヌさんの舞台だけだ。

ペヤンヌさんの舞台では、いつも最後に、
加藤ミリヤの『ロンリーガール』が流れる。
昔、この歌を初めて聴いたときには、
加藤ミリヤの歌っている光景が、安っぽいセンチメンタリズムに酔ってるみたいでバカらしく思えてたけど、
その安っぽいセンチメンタリズムと、自分の人生の間には、なんの違いもないんだと気がついてからは、この歌が本当に好きになった。

もっともっと、たくさんのひとに観てほしかった。
舞台って、あまりにもすぐに終わってしまう。