批評や評論について、
「愛情がある」「愛情がない」という言葉で語るのは、
あまりにも安易で、退屈で、
そんなことを言う人のことを、わたしは信用しない。

愛情、と、簡単に言うけれど、

ただ「好き」という気持ちを書くのは、愛情じゃない。
それは、ただの、思い込みの一方的な恋情であって、
そんなものをもとに文章を書くのは、
相手に無理矢理自分の体液をなすりつけるような、
そういう行為だ。

わたしは、自分でそう思うのだけれど、
そういう一方的な恋情でものを書くことは、得意なほうだと思う。 
批評とか、評論なんて、とても呼べない、
ただそのものが好きで好きで、自分だけがそれをいちばんよくわかっていて、
自分がこの世で誰よりもいちばんそれが好きなのだと、
独占欲をむきだしにして、
無抵抗な対象物に、爪を立てて噛み付いて歯形をつけて、
「これはわたしのものだ」と、宣言するような、
そういうなんとも下品な文章が、とても得意で、 
好きであることは事実でも、こんなものは愛情ではないのだと、
常々思っている。

岡崎京子の研究』という本があって、
この本は、その膨大な情報量と、
あまりにも綿密な調査内容で驚かれている、
歴史に残る重要な本だと言えるのだけれど、

わたしがこの本のことをとても好きなのは、
この本が書かれた動機が、まるで愛情のように見えるからだ。

こうした技術的にも内容的にも素晴らしい本に対して、「愛情」などという、
感情的な言葉を使うのは、
まるで汚しているみたいで少し気がひけるのだけれど、

対象を、可能な限り調べて、可能な限り詳しく知り、

思い込みや思い入れ、単なる推測じゃなく、
可能な限り「正しく」理解し、表現しようとするのは、
本当の動機が何であれ、
はたから見れば、もうそれは「愛情」に等しい、高潔な意志だと思う。

対象物に、自分の思い込みを押し付けず、
思い入れの言葉をぶつけず、
徹底的に事実を積み上げたうえで
遠慮がちに「こういうことなのではないか」と、理解しようとするのは、

わたしが知る限り最大の、
至上の愛、のようなものに見える。

それがにじんでいるように見える文章が、二箇所ほどあって、
心の皮がぷちっと破れそうになった。