タトゥーを入れたいな、と、ときどき思う。
ピアスやタトゥーを入れることは、強さへの憧れ、みたいな分析には基本同意する気持ちはあるけど、
わたしが思うには、それは他者に対しての強さの誇示ではなく、
自分自身に対する表明に近い。
誰かが、タトゥーやピアッシングなどの人体改造のことを「模様替え」と表現していたが、それよりもしっくりくる言葉に出会ったことがない。
自分に見える、常に自分とともにある、自分の肉体を模様替えするのだ。
どれほど気分が変わるか、想像できるだろうか。
 「後悔しないかどうかよく考えろ」
という問いは、意味をなさない。
今どうしても気分を変えたい、変えなければ生きていけない、という切実な気分転換もある。
もっとも「後悔しないかどうか」という問いは、
基準を「他者にそれが原因で排除されたり、拒否されたりすることのある行為をして、後悔しないのか」というところにおいていることが多いので、
その気分転換が切実なものであろうとなかろうと、意味をなさないものだと思うけれど。

わたしはときどき、タトゥーを入れてみたいという気分になるので、
過去にも何度か、入れようかと思ったことがある。
あるときに、何気なく「タトゥーを入れようかな」と口にしたところ、

男のひとに反対されたことがある。
男によっては、そういうの萎えるからやめたほうがいいんだと。

それはその通りだと思うけど、
軽蔑と嘲笑がこみあげてきたのを覚えている。

この男のひととは、つきあってなどいなかった。
でも、彼は自分がときどき見るわたしの身体のことに、
一般論として、そういうふうに口を出したのだった。

いったい、わたしは、
女は、
世間の男たちの望む
「こうでなければ欲情してやらない」
という基準を、
いくつクリアし、
いくつ厳密に守り、
口をつぐんで欲情されるようにがんばらなくてはならないのだろうか。

こういう髪型はダメ、
こういう服装はダメ、
こういう化粧が好ましく、
こういう言動が良いとされることを、
ひとつも取り入れず生きている女は、どれだけいるのだろうか。

そんなものを意に介さない男もいることは、わかっている。
でも、実際は、そのような「世間一般の基準」を持った男のほうがずっと、扱いやすく簡単なのだ。
そういう男を心から好きになることはない。 
つまりわたしは、軽蔑している男としか遊べないのかもしれない。

「世間一般の基準」を持たない男は、ほんとうのわたし自身がどういうものであるかを詮索し、査定するだろう。
わたしはそのことが怖い。
「世間一般の基準」からはずれているとか、「世間一般の基準」で見たら女として価値がないとか、
そんなことは今まで何度も言われ続けてきたことだ。
平気にはならないし、傷つかないわけでもないけれど、耐えられないことではない。自分自身よく知っていることだ。
でも、その男の基準で「価値がない」と判断されるのは、つらい。
好きになった男であれば、神様に否定されたように感じるだろう。

わたしはAVを観ているから、
一般的な男のひとが、どのような基準をクリアした女に欲情するのか、
人よりは少し詳しいつもりだ。
その仕組みに乗っかったほうが、うまくやっていけるんだろうとも思う。
ある程度器用にそういった他人の価値観に自分を合わせることもできる。
儀礼的に割り切って、葬式で喪服を着るように。 

だけど、合わせられない部分もある。
わたしにはそれが「曲げられない自分自身」「ほんとうの自分の魅力」なのだとはとても思えず、
ただ、曲げようとしてきれいに曲げられず、変な形に歪んでしまった、
金属のごみのように思える。