『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』を読む。
読み始めて、いまさら初めて、この事件のことが本当にあったことなのだと、現実味を帯びて感じられてきて、引き込まれひと息に読んだ。 

 

わたしがこの事件に関心があるのは、大きく分けると、恋愛の部分と女の部分だ。
恋愛の部分は、恋愛というもの、恋愛だとひとが信じているものが、いかにテクニックで変化するものかということで、
木嶋佳苗がどのようなテクニックを使って、数多くの男たちを夢中にさせていたのかが気になっていた。
それについては、十分に納得がいった。 

 

もうひとつは、女の部分。

女の部分は、うまく説明ができない。
この事件のことを考えると、心が波立って、この傍聴記も、毎号追っては読めなかった。まとまるまで考えたくなかった。

この事件のことを考えると、わたしが普段、フタをして生きている、男への憎悪が燃え上がるように感じる。

 

たとえば、被害者の男性の自宅がひどく不潔で、掃除がされていなかったこと嫌悪感があった、と木嶋佳苗が話すと、検事は「あなたが掃除や洗濯をすればいいだけの話では?」と返している。
独身女が不潔で掃除がされていない部屋に住んでいれば「汚部屋」「片づけられない女」と女失格であるかのようにあざけり笑われるのに、男はなんなのだ。
たかが配偶者がいないだけで、掃除や洗濯もできないままほったらかしにしておいて、それでも「片付けてくれる人がいないから」で済まされるのか?
そんな些細な部分に、ものすごく深い断絶を感じて、怒りで気持ちがしんどくなる。
男には許されていて、女には許されていないことを暗に非難される場面が、この裁判ではあまりにも多いと感じた。

生活していて、当たり前のことができないなんて、バカにされることだ。
わたしはそう思っているのに、
好きな男の部屋が散らかっていれば、嬉々として掃除をする。
掃除ぐらいで、自分を必要としてくれるなら、という気持ちがある。
掃除や料理ぐらいで、自分を一緒に生活する相手に選んでくれるのなら、そんな簡単なことはない。
その、男のずるさにつけこんで、愛情を得ようとするずるさが、自分にもある。

自分を偽装して、擬態して、媚びて「女」を演じようとする。 

その結果、そういう「女」を喜ぶ相手に嫌悪感を感じることもある。

 

愛情さえなければ、わたしは自分がなにを正しいと思うか、まっすぐに主張できる。
男のこういうところはおかしい、間違っていると。
なのに愛情を得ようとすれば、口をふさがれて何も言えなくなる。
自分からその男のずるいところ、間違っているところの、片棒をかついで共犯になってしまう。
なぜそうなるのだろう。
わたしがいちばん腹が立つのは、女が家事をするのが普通、という常識や思い込みそのものに対してじゃない。
愛情のために、自分の考えや、自分の思う正義のようなものを、曲げて折って消してしまいたくなるような苦しみを、
いったい、男は、味わっているのか。
そのことに対してだ。

愛情さえなければ、わたしは正しくいられる。
自分に迷いなく正直でいられる。
愛情だけがいつも、間違っている。
間違っているのに、それがいちばん大切なものなのだ。

気になるところ、ひっかかるところはたくさんあって、
女を売ることについてや、彼女の人生、考え方も気になるけれど、
読んでいて感じたのは、
女は既婚/未婚、子持ち/子なし、などの分断だけでなく、
容姿によっても分断されているということだ。

そして容姿による分断だけが、他者からの評価に基準を置いている。

 

容姿は、女同士の間は分断するのに、
男女の間は隔てない。
ブスだろうが美人だろうが、その場でどのように評価されていようが、
男女の間では、それは乗り越えられる壁なのだ。

 

わたしは、木嶋佳苗本人や事件そのものについてよりも、この事件をきっかけに浮上するさまざまなことに興味があるのだと思う。
北原みのりさんの文章、素晴らしかった。