イベントのときに「自分の今の容姿に点数をつけるとしたら何点か」という質問をされて、軽く呆然としてしまった。

 

まぁ、これは簡単に翻訳すれば

「容姿で悩んでつらかったことを書いているけど、今は別につらくないでしょ?」

ということなんだろう、と思う。

 

本を書いて、人前に顔を出すようになれば、

いろいろなことがある。

容姿を罵倒されることもあるし、ほめられることもある。
ほめられていても、褒め言葉の裏に、
「お綺麗ですね(だから本当はブスの苦労なんかわかんないんでしょ)」

「とてもそんな過去があったようには見えないです(本当は昔もたいしてひどい人生だったわけじゃないんでしょ)」

というような意味合いのものがべったりと貼り付いていることもある。
(もちろん、純粋な褒め言葉は素直に嬉しく受け止めているけれど)

容姿で悩む、というのは、そんな単純なことじゃない。
醜くて悩むこともあれば、ほんの少し美しくなっただけで袋だたきにされることもある。
顔がいいから頭が悪い、実力がない、性格が悪い、調子に乗ってる、なんていう偏見をぶつけられることもある。 
そして、ほとんどの人が、その両方を言われる可能性がある。美醜の基準なんて、その場、そのとき、周りの環境や流行でむちゃくちゃに変わるものだからだ。
本には、どちらのことも書いたつもりだけれど、そこはあまり読まれていないことが多い。

それぐらい、この世の中では醜いことは圧倒的な苦しみで、美しいことはそれだけで「恵まれている」ことだと思われている。
美醜という価値基準が、絶対的なものだとも思われている。
好きになれば世間的に醜いといわれるような相手であっても、そのひとが輝いて見えるような瞬間を、誰もが知っているはずなのに。

わたしは自分が決して「恵まれている」側の人間ではなかったと、自分でよく知っている。
直視できないくらい醜かったし、
醜いだけでなにもかもに希望がなく思えた。
そこから抜け出したかったから、仕事をしようとか、服装を変えようとか、 もがいた。
まっすぐに上にのぼっていける道のりでも、坂道をのぼるようにのぼっていける道のりでもなかった。のぼればのぼったところに、圧倒的に美しい人や才能のある人がいて、比べればもとの地点まであっという間に突き落とされた。
思い出すだけで胃が焼けるようだ。


他人と比べるのを、いっさいやめる、ということはたぶん、できない。
だけど、比べていたら永遠に苦しい。世界中で一番になれることなどないからだ。

たとえ自分の満足いくほど美しくなれたとしても、世の中の善し悪しの基準は美醜だけではないのだから、その先もずっと今度は内面へのダメ出しが続いていくのだとしたら、きりがない。

加齢による変化だって避けられない。

 その苦しさから一瞬でも逃れるには、自分で自分を気に入ること、自分で自分に満足できる瞬間を作ること、
そんな自分を認めてくれるようなひとと会うことしか、ないと思う。
「世界でいちばんでも、日本でいちばんでも、友達の中でさえいちばんではないけれど、でも、昔に比べたら、今のほうがそこそこ良くなったよね。良くなったのは、自分が良くしたんだよね」
という程度の満足の仕方しか、ないんじゃないだろうか。


もちろん、それで心をずっと平和に保てるかというと、そんなこともないだろう。
比べる瞬間はあるし、またどん底にたたき落とされることもあるかもしれない。
だけど、わたしに限って言えば、その瞬間は今までと比べ物にならないほど、減った。

それは、安野モヨコが『美人画報』を出したことでどんな目に遭ったか、少しは知っているからだ。

『美人画報』は、何度も読み返している。
そして、容姿を非難されたという記述にさしかかると、いつも怒りがこみあげてくる。
なぜ、こんな楽しい連載が、そんなことで非難されなければいけないのか。
美醜は、そんなに重要なことか。
女は書く内容じゃなく、どこまでも見た目のことを言われなきゃいけないのか。
安野さんのような才能が、なぜそんなことに苦しめられなければいけないのか。
ひとの分まで、わたしは勝手に怒っている。考えると涙が出る。
わたしはこんなに好きなのに、その好きなひとを、くだらないことを言う人間が傷つけた。そのことが今でも許せない。
傷つく人間が弱いからいけないんだなんて、絶対に思わない。
どうでもいい他人のことなら、そんなふうに思うかもしれないけれど、好きなひとのことを、そういうふうには思えない。
弱くはなかったはずだ。今までずっとタフな戦いに耐えてきたはずだ。

わたしは、自分が大切に思っていた才能や、すばらしい人が、
ひとのくだらない悪意や、無神経な批判で叩きのめされるのを、何度も見たことがある。 
「わたしは大好きなんだから、そんなこと気にしないで、のびのびやってくれればいいのに」
そう思って、そのひとたちが、自分の好意よりも、愛情もなにもない、まともに読んですらいないひとの悪意を受け取っていることが、くやしくてたまらなかった。
すばらしいものが、悪意でぶち壊しにされていくのは、
正しいものが、まちがっていると否定されたみたいで、本当にくやしかった。
 

他人が自分のことを評価する視点、他人がつける点数をまともに受け取っていたら、下手したら命までとられると、わたしは思っている。
自分までその評価を鵜呑みにして、受け入れてしまったら終わりだ。
それは、なにより、周りのひとに対しても失礼なことだ。

愛情よりも悪意のほうに真実があるなんて、思ったらおしまいだ。

わたしは、そのことから、自分の身を守る気がある。
なによりも、いままで必死に自分の卑屈さや劣等感と戦って、小さく小さく砕いてきたのに、
そんなものにいまさらまた栄養を与えて太らせるようなことは、もう絶対にいやだ。

劣等感や卑屈さと、とことん向き合うということは、
その劣等感や卑屈さを、最大限に刺激するということだ。
最大限に刺激すれば、想像を越えるようなひどい目に遭う。
そうなったときに初めて、心の底から、こんな感情と縁を切りたいと思える。
生きていくためには、この感情と縁を切るしかない、というところまで追いつめられれば、切るしかなくなる。

 
比べて、比べて、想像もできないくらいえげつない比べかたをされて、
わたしはこのスイッチをどこかで切らないと、生きていけないと思った。
だから、半分、そのスイッチは切ったまま生きている。
それが鈍感になることでもかまわない。
わたしは、その劣等感は、もういらないのだ。一度、底まで入って見てきた井戸だから。