朝、数日前に着たワンピースの裾にしみができているのを見つける。慌てて洗濯してみるが、取れない。生地としみの感じからして、経験上クリーニングでも取れないだろうとわかってしまう。

ネイビーのワンピースが欲しくて、歩き回って探して見つけた服で、まだ一度しか着ていない。ものには頓着しないほうだが、さすがに落ち込む。
満開の桜に小雨が降ってきて、憂鬱に拍車をかけてくる。

しみが目立たないよう気にしながら着るのは好きじゃないので、とっておいてもこの服はもう二度と着ないだろう。
思い切って生ごみと一緒にごみ袋に入れて、マンションのごみ置き場へ持っていく。
弱って回復する見込みのない小さな動物の首を絞めて安楽死させたみたいな罪悪感。

落ち込んでいたが、ぎりぎり夕方前の時間に原美術館の「杉本博司 ハダカから被服へ」という展覧会にすべりこむ。
エントランスをくぐると、いきなりジャック・ゴーディエ・ダゴディの、背中の皮膚を開かれた女性(だと思う)の絵が目に入る。
「人間は体を被服して皮膚を隠すようになったおかげで、その服を脱がせるという喜びを得た」
胸がおどる。展覧会は杉本博司の過去の作品の中から選ばれたものと、新たに用意されたもの、そして他のアーティストの作品の中から今回のテーマに合ったもので構成されており、それらすべての作品に杉本博司の解説がついている。
この文章がふるっている。

杉本博司の展覧会は、人が普段当たり前だと思っていることの皮をべろんとめくって
「あなたの信じていたものって、皮だけでしたよ? 本当はこの肉が真実なんじゃないですかね? いやこの骨かもしれないな」
と言ってくるような、そういうものが多い。
今回のテーマの被服は、まさにその「皮」をテーマにしているみたいで、二重の意味で皮をめくられていくようだった。

今回のために撮りおろされたのは、モード界の歴史に燦然と輝く、画期的なドレスの写真。
本物を見たことも、もちろん着たこともないドレスの、優美なライン、被服という行為そのものに挑戦するかのようなデザイン、こんな「第二の皮膚」を纏ったらどんな気分になるのか、と思うような、動物としての人間について考えてしまうデザインのドレスに、見とれる。
美術館の日本庭園には、隣の別の庭からの桜風吹が降りそそぎ、土を薄桃色の点描で染めていた。 

「なぜ私達人間は服を着るのだろう。私達は装い装う。私は私以外の何者かになりたい。いや、私であるためには、私は私を装わなくてはならない。現代文明のただ中では、裸は許されない。私は裸の自分を羞じる。私は着せ替え人形だ。毎日服を着て、私は私を演出する。私が裸でいられる短い時間、それは入浴の時と、子孫繁栄の時。私が子孫繁栄の時へと導かれるためには、夥しい擬態と演出が必要だ。私が私を裸の恍惚へと導くには、夥しい数の服が必要とされる。
(中略)

私は私の知性を装い、私の資産を装い、私の嗜好を装う。装いは服だけではない。私の表情、私の仕草、私の目の翳り、それらは自動的にあなたの着るものと連動している。あなたの意志とは関わりなく、あなたの着る服が、あなたの表情を決める。あなたは、あなたの服の気持ちになる。顔というあなたの仮面は、あなたの服にもっともふさわしい仮面を選ぶ。
大昔、私達が裸で暮らしていた頃、私達は幸せだった」

わたしは、人間が動物であることを、よく考える。
恋愛をすれば、かならず一度は考える。
わたしたちに、プライドや見栄や、社会的な立場がもしもなければ。
倫理観などなければ。
駆け引きなどなければ。
言葉なんかなければ。
もちろん、その「もしも」の中には服も入っている。 

だけどわたしは、この仮面舞踏会を、赤い靴を履いて死ぬまで踊り続けてみせる。
踊る者にしかわからない恍惚を、わたしは求める。
すべてを捨てて、言葉のない世界で抱き合えるひとのいない時間は、そうして過ごす。

帰りに、ふと聴きたくなってTHE YELLOW MONKEYの「花吹雪」という曲をダウンロードして、電車の中でイヤホンをつけて聴く。
桜に始まり、桜に終わる一日だった。
その桜の季節ももうすぐ終わる。