新訳『風と共に去りぬ』

去年買っていた『風と共に去りぬ』(鴻巣友季子訳/新潮文庫/全5巻)を、
旅の行き帰りに読んだ。

翻訳ものの苦手なわたしが、全5巻もある本を買ったのは、
こんな名作を未読であることを恥だと思う気持ちもあったし、
宝塚で舞台版を何度も観ていて、それが大好きだったからでもあった。

買ったはいいけれど、物語の長さに気後れしたり、
集中して本を読む気分になれなかったりで、なかなか読めずにいたところ、
宝塚でリンカーンを題材にした舞台を観て、
南北戦争から連想し、この旅で読もうと決めた。

読み始めてみると、これは、長い物語を必死で読むようなものじゃなく、
朝ドラのように、毎日少しずつ「どうなってしまうんだろう?」とハラハラしつつ日常を読んでいくようなところのある、
重厚だけれど軽く、人の興味を惹く展開が絶え間なく用意されている大変楽しめる小説だった。
本といえば、ひと息で読むか、読みづらくて時間がかかりすぎるなら途中で放り出すか、どちらかの読書しかしたことのなかったわたしには、この読書がとても新鮮だった。

宝塚版が好きな人に保証できるのは、バトラー船長は原作でも非常に、いや舞台以上にセクシーで、もう手に負えないほど魅力的な男だということだ。
それが、たまのご褒美程度にしか登場しないんだから、たまらない。

あんな男とベッドを共にするのと拒むなんて、スカーレット……お嬢さんはちょっとどうかしてるんじゃないのかね!? とわたしがマミーに代わって言ってやりたいものだ(マミーはそんなことは言わないけれど)。

もちろん舞台にするからには、大きくはしょっている部分があるのだが、
(第一部、第四部はほぼ無視している)
最後の有名な一文は、宝塚では一幕の終わりに、スカーレットの不屈の精神を讃えるかのような、感動的な歌になって登場する。
物語の最後にこの一文を読むと、とても絶望的なフレーズに読めてしまい、
気絶したくなるほど切なかった。

舞台と違うところといえば、スカーレットは三度の結婚で三人の子供を得ているが、
それがまったく出てこないこと。
とはいえ、バトラーとの子供以外は、産んでもまったく興味ゼロという感じで、
夫のことも、子供のことも、ほんの数行しか書いてないんじゃない? というくらい、
途中までほったらかしである。
妊娠するたび、うんざりしている。
 

いつも話題にされるのはスカーレット・オハラという女性のことで、
そしてスカーレットは確かに面白い女に違いないのだけど、
読んでいると、スカーレットも自分であり、メラニーも自分であり、
アシュレも、バトラーも、みんながみんな、自分の思うようなことを思っている、と感じる瞬間がある。
全員のことが他人事ではなくなっていく。

スカーレットは、時代の流れの中で、一家の長として父のように

周りの人の食い扶持を心配し、どんなことをしてでも飢えさせないよう心を砕く。
金至上主義のスカーレットは、非常に現代的で、
理想と、食べていくための現実がせめぎあうあたりも、この物語は今の物語のようでもある。
夫婦関係や、人付き合いについても、今も目を向けるべき真実が書いてあると思う。

と、りっぱなことを言っているようだけど、時代が劇的に変わってゆく中で、
怖いものなんかもう知り尽くしてしまった女が、これまでの美徳をかなぐり捨てたり、
怖がりだった女が、必要なときには勇気を発揮し、美徳を守り続けたり、
いつか、どうでもいいと思って捨ててきた良心や美徳をなつかしく思うときが来たり、
人生でいったい、何をどう選んでいくのが良いのか、考えさせられる本でもあった。

今で言うと、炎上商法みたいなことをやってる女なのだ。スカーレットって。
「だってお金が欲しいんだもの。お金があれば素敵なドレスも、豪華な家も建てられる!」
こんな暴れ馬みたいな女を、レット・バトラーは愛し、金だけでは得られないもののことを考えている。
そして、こんなスカーレットと、本物の貴婦人と呼ばれるメラニーの奇妙な友情は、ずっと、続いていくのだ。

他人は、決して、思い通りにならない。
そして、他人に決して、自分が望むような衣装を着せて、その幻をあがめるようなことをしてはいけない。

ああ、そんなつまらないことが言いたいんじゃなくて、ただ、この、とてつもなく面白い物語を読んだ喜びを、わたしは今、かみしめている。