『かぐや姫の物語』の、女の物語

 『かぐや姫の物語』を観た。強い衝撃を受けた。昔話のあらすじそのままでありながら、昔話ではなかった。これは、あきらかに現代を生きる女の話だった。震えた。

 

 思春期を迎える頃に、かぐや姫は生まれ育った山を離れ、都へと連れていかれる。この時点でいくつかの喪失がある。子供時代の喪失。野山を駆け巡る生活の喪失。遊び仲間の喪失。姫は、このときまだ自分が何を失ったのか理解していないが、「子供時代の喪失」は、女にとって、人間性を一度失うことと同じである。女にとって、大人になるということは、ただ子供から大人になるということではない。大人ではなく、「女」になれ、という周囲からの強制が必ず働く。ただ自分の意志で好きなことをし、気持ちをそのままに表現できた子供時代を失い、人目を気にして誰から見られても恥ずかしくない「女」になれと強いられるのは、自分自身を捨てろと言われているのに等しい。都に移り住んだ姫は、走り回ることを注意され、書や琴などの習い事をさせられる。象徴的なのは化粧のシーンだ。姫は最初、化粧を拒む。眉を抜けば汗が目に入る、お歯黒をすれば思いきり歯を見せて笑えない、と言う姫を、教育係の相模は「高貴な姫君はそういうことはしない」とたしなめる。姫はそれを受け、こう言う。「高貴な姫君は、人ではないのね」と。

 

 やがて姫は初潮を迎え、裳着の式(成人式)の宴が行われる。三日三晩続く宴の席で、姫はずっと御簾の中にひとり座っているだけである。「私のためのお祝いなのに、私は座っているだけなの?」。当然の疑問を姫は口にするが、誰も相手にしない。やがて、酔った客が姫の御簾の前で翁に絡み始める。「美しいと評判の姫を見せろ」「本当に高貴な身分の姫君でもあるまいし、もったいぶるな」「本当はお化けみたいな顔だったりして」。会ったこともない、自分には関係のない男たちの無責任な品評、嘲笑。

 

 姫は怒りに燃え、誰もいない月夜の街を疾走する。人格をまるごと無視され、外見に値段をつけられ、耐え難い侮辱の中で生きなければならないことを姫は知る。

 

 そして、ぼろぼろになってたどり着いた故郷の山で、「木は枯れてしまったのではない。冬の間、春を待っているだけなのだ」と聞き、姫は化粧を受け入れ、別人のように静かになる。彼女は「冬」を受け入れる。

 

 姫の評判を聞き、五人の求婚者が現われる。「こんなに恵まれた縁談はない」「幸せ者だ」と口々に言われるが、姫は結婚をしたいとは思っていない。それで無理難題を押しつけて帰らせ、屋敷を抜け出して懐かしい故郷の山へお花見に出かける。姫は満開の桜の木の下で駆け回る。大口を開けて笑う。やっと、春が来たのだ。

 

 しかし姫の喜びは中断される。子連れの母親にぶつかってしまうと、ぶつかったのは姫なのに、母親は土下座して謝罪する。その姿を見て、姫はもう、みんなから対等な人間として扱ってもらえた「あの世界」の中で生きることは二度とできないということを知る。

 

 そして求婚者たちはふたたびやってくる。にせものの蓬莱の玉の枝を持ってきた車持皇子が、「代金を払え」と迫る職人たちから逃げ帰ったとき、かぐや姫は笑う。これは嘲笑のようにも見える。こそこそと逃げ帰る様子は確かにおかしい。が、結婚せずに済んでほっとしたのだろう、とも思う。二人目の阿部右大臣が火鼠の裘を持ってきたとき、かぐや姫は「本物なら今、火にくべてください」と言いながら、その手は震えている。大伴大納言は勇敢に船旅に出るが、なにも持って帰れず姫のところには姿を見せない。そして、石作皇子が仏の御石の鉢を持ってくる。それは本物ではない。しかし石作皇子は愛を語る。「ともに野山を駆け、夜は一緒に眠ろう。心が大事なのだから」とかきくどき、姫ははっとする。それは他の求婚者は決して言わなかった言葉だった。石作皇子が御簾を上げると、醜女と入れ替わった「姫」がいる。石作皇子は一瞬の間も置かず、即座に「勘弁してくれ」と求婚を取り下げる。この男も、姫の美しさが欲しいだけだったのだ。姫は泣き崩れ、五人目の石上中納言は、燕の子安貝を取ろうとして、高いところから落ちて死ぬ。

 

 石上中納言が死んだという知らせを聞き、姫は荒れ狂う。故郷の山に似せて作った庭を破壊しながら、「こんなものにせもの、私もにせもの」だと言い、「私のせいでみんな不幸になった」と慟哭する。

 

 かぐや姫の罪とは、「愛を試したこと」なんかではない。姫自身の視点から見れば、姫の罪とは、自分の意志を持ち、周りの期待に添う言動ができないことだ。誰もが羨む暮らしを手に入れ、女ならば誰もが望む結婚相手が五人も現われた。誰もがそれを「幸せ」だと言うのに、自分はそれを望めない。誰もが望んでも望んでも低入れられないものを拒む姫は、「わがまま」だと言われる。これが現代の女の話ではなくて、何だろうか。姫はにせものではない。けれど、女としては、にせものなのだ。形だけ化粧し女らしく装っても、姫は女として、自分を殺して生きることができない。

 

 姫は決してわがままな女ではない。彼女は嫌な暮らしから逃げ出さない。育ての親である翁と媼の期待に添いたいと思っているのだろうし、自分が逃げ出せば二人がどんな目に遭うか想像している。愛情と思いやりがあるからこそ、常識としがらみに縛られ、がんじがらめになっている。十分に苦しんでいるのに、金があり若さがあり美貌があり良い縁談があるから、そうでないことを望むのは「贅沢」で「わがまま」なのだと言われる。女なのだから、美貌を磨いて活用し、最高の相手と結婚することしか、周りの人が認めてくれる「幸せ」にはなり得ない。彼女が自分自身の幸せを望むことは、この世界ではわがままなのだ。

 

 姫が月へと帰るのは、自殺だと私は解釈している。御門からの求婚で、姫は女として生きることをいよいよ強要され、逆らえないところに来る。女としての最高の幸せが、姫にとっては最大の不幸だという強烈なコントラスト。姫は「こんな目に遭うのなら月へ帰りたい」と願い、月から迎えがやって来る。彼女はそれでも、月へ帰る間際、苦しくつらかったはずの「生」を全力で肯定する。

 

 「女」が「女」としてでなく、ただ人として生きることの困難や苦しみが、『かぐや姫の物語』には描かれている。「女はかわいいものが好き」「女はピンクが好き」「女は甘いものが好き」、そして、そうでない女は「変わっている」と言われる今と、『かぐや姫の物語』で描かれる世界は、本質的にはまったく同じだ。女の規範に添わない女は、自己主張が強く、面倒くさい女として扱われる。その視点から見れば、かぐや姫は非常に「面倒くさい女」に見える。

 

 世の中の人は、若く美しい女に人生の苦難なんかないと思っている。美しく生まれた女には人生は楽勝で、生まれながらに勝ち組だと思っている。そこにどんな絶望があるか、こんな鮮やかに描き出されるなんて思ってもみなかった。醜い女は「お前なんか女じゃない」と「女」を奪われ、美しい女は「人」であることを奪われる。かぐや姫は「人」であることを奪われる側の人間だった。

 

 表現というものは、ここまでのことができるのか。何かを作るということは、何かを伝えるということは、ここまでのことなのか。今まで誰にもうまく説明できたことのない感情を、なぜこの作品は「知っている」のか。映画館の暗がりの中で歯をくいしばって何度も何度も泣いた。高畑勲は、「女」は、人間だと、言っている。なんでたったそれだけのことで、こんなに心が震えなければならないのか。

 

 美しい作品だが、それはただ描線や彩色がきれいだからではない。作品が生きているからだ。すべての要素がぴたりと噛み合って、生きている。この作品について、なぜいまさら『かぐや姫』なのかと、まるでただの昔話のアレンジであるかのように言う意見を目にしたけれど、それは大きな間違いだと思う。現代のとても大きな問題を、確かな知性とクリエイティビティで表現した、重く垂れ下がっている緞帳を切り裂くような作品である。

 

 映画を観ることができてこんなに嬉しかったことはない。苦しくとも、つらくとも、生きていてよかった。このような作品に触れることができてよかった。