まだ寒い時期に、前田隆弘さんにインタビューしてもらった、死生観についての記事の前編がアップされていた。
前田さん、どうもありがとう。
http://modernfart.jp/2012/08/8761/

 

前田さんはとても良い方で、信頼できる方だなぁと思ったのだけど、
死生観についての話は、
あまりにほんとうの気持ちを言うと、泣きそうになるので、
ちょっとヘラヘラしたかんじでしゃべってしまった。
これはこれでほんとうのわたしなのだけど、
(ものすごく、いつものわたしだ)
読みながら、もういちど「ほんとうはどう思っているのか」を考えてしまった。 

わたしは、

「愛するひととともに生きられなければ、いますぐ死んでいい」
と思っている。

 

いつも思っている。

「あれがしたい」「これがしたい」というのは、
わたしにとっては、「なんとか生きていくためにしたいこと」だ。
たとえば、わたしは11月の桑田佳祐のコンサートをとても楽しみにしているけれど、
それは「生きていくために、希望がほしいから、観たい」のであって、
いますぐ死ぬ予定があれば、その希望はとくに必要がない。

自分が本当に、心から望むことが叶うという可能性が、
あるともないともいえないところが、人生のややこしいところであって、

あると信じて、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだところで、

孤独なまま生き、死ぬかもしれない。
どれだけ努力しても、報われないかもしれない。
そういう人生もある。

でも、自分から死なずに生きているのは、
希望を信じているひとのほうが、正しく見えるから。
たとえ報われなくとも、希望を信じて生きるひとのほうが、美しく見えるからだ。
正しさや美しさを放棄することが、わたしにとっては、生きることを放棄することとおなじことなのかもしれない。

愛することのほかに、人生で、やることなんかそんなにない。
愛し合うことのとかに、人生で、やりたいことなんかない。
ひまだから文章を書いて、書いて、書いて、
文章で求愛している。
わたしは、誰にも死んで欲しくないし、
誰も孤独に生きて欲しくない。


「希望があるから、人は泣く」
というメールをもらって、
心から泣いた。
真実を的確に削り出した言葉には、
だれが見てもあきらかな、光があるとおもう。

なぜだかわからないけれど、

わたしは宇多田ヒカルの音楽を聴いているときだけ、

声をあげて泣くことができる。

つらいときは、ある一曲を、

ヘッドフォンで大きな音で、

繰り返し聴く。

どうしても希望がほしい気持ちになったら、

『UTADA UNITED 2006』という、ライブDVDの
頭からぶっ続けで演奏される5曲を観る。

この最初の5曲の、音楽と映像は、
あまりにも好きすぎて、ときどきしか観れない。
頓服薬のように、大事なときにしか観ないようにしている。

ときどき、あまりにも素晴らしい作品や、人に出会ったときに
「こんなものがこの世にあるなら、自分なんかいらない」
「自分が何かを作る意味なんかない」
というようなことを言うひとがいるけれど、
そんなのは嘘だとおもう。

わたしは宇多田ヒカルがいれば、今までにつくられた彼女の歌があれば、
たぶん一生救われ続けるし、
宇多田ヒカルを越える輝きなど自分には死んでも出せないし、
あんな才能はないし、あれに匹敵するものなど絶対に作れない。
そんなことはわかってる。
けれど、宇多田ヒカルの歌を聴いて絶望したことなんか一度もない。
それは、そのほかの、すばらしいもの、すべてに対して、そうだ。
どんなに、死ぬほどすばらしいものでも、それに触れて絶望したことなんてない。

ほんものというのは、そういうもので、

ほんものというのは、正しい光なのだ。
どんなにどん底にいると、わかっていても、
そちらを向いて進まなければならないのだと示してくれる。
その光を見て、絶望するなんて、
それだけの光を放ってものを作っているひとに、失礼だとおもう。

わたしは、誰も見ていなくても、

たとえ神様さえ見ていなくても、
すばらしいものを見て絶望なんか絶対にしない。

どん底からでも、ひどい状況の中からでも、
その光を賞賛し、肯定したい。

(『UTADA UNITED 2006』は、
もしかしたらYouTubeとかそういうもので観れたりするものかもしれないけれど、
これは、映像と音のクオリティが非常に重要なので、
初めてはちゃんとDVDで観てほしい )

あっさりした香りに飽きてきたので、
お店で違う香水を試しにつけてもらった。
これでもまだ、あっさりしているような気がして、
自分の気持ちが夏から離れていくのを感じた。

東京都現代美術館の「FUTURE BEAUTY」展をみてきた。
まぁ、なんというか、
川久保玲は怪物、ということを実感するためのような展示なのだが、
わたしはそれでも、山本耀司が大好きで、
そのことを実感した。
素晴らしいことと、好きなことは、ちがう。

ソマルタの服は、着てみたらどんな感じがするのだろう。
作品は二点しかなかったけれど(オペラシティのときのほうがたくさんあった)綺麗で、
第二の皮膚をまとうような、その感じが、
原始的で好きだ。

その展示を観てからというもの、
最近はとんとごぶさたしていた、
いいお値段のデザイナーズブランドの服を、ちらっと見に行ったりしてしまい、
ちょっとクレジットカードを出してみようかなんて思ったりしてしまい、
どう考えても、わたしのふだんの生活には少し前衛的でデザインが強すぎるのでは……という服でも、
「とにかく美しい」「素晴らしい」「身にまとってみたい」
という、まぁその、洋服を好きになったひとが最初にやってしまうあのパターンで
欲しくなってしまったりして、
少し困っている。

本当は、今年の秋冬は、
まず靴を買って、ジャケットを探すはずだったのに、
もうぜんぜん、計画なんか、めためたである。
さらに香水が欲しいなんて言い出して、
どうしようもないったらない。

とにかく、試着して、冷静になって考えるしかないのだけど、
試着して気に入ってしまったら……。
あんな芸術品みたいな服に、凡庸な靴やアクセサリーを合わせるわけにもいかないのだろうし、
大変なことになってしまうのは目に見えている。

 

ああ、でも、着てみたい。一度でいいから。

わたしが勝手に、AV界の三大巨匠だと思っている監督のひとり、

ヘンリー塚本監督に、きょう、取材で初めて会った。

 

ヘンリーさんは、
 

「この世の中で、いちばん大切なのはセックス、

 この世の中で、いちばんすばらしいものは、惚れた女のおまんこだよ。

 好きになったら、断られたらどうしようなんて考えちゃいけない。

 だめでもともとなんだから、

 好きです、やらせてください、と言わなきゃいけない」

と、言った。 

 

取材中は、ああ、これはいい原稿になるな、と、わりと冷静に考えていたけれど、
終わって、編集さんと別れて電車に乗り、

代々木駅で降りたところで、その言葉を思い出して、泣いた。

「おまんこ」っていう言葉を使って、いいことを言うのは、実はけっこう簡単だ。
「おまんこ」自体にインパクトがあるから、なにを言ったって、それなりにショッキングになるし、
面白くもしやすい。
谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」という詩だって、大胆で爽快だけれど、
わたしは好きじゃない。 

「おまんこ」っていう言葉に、よけいなものがつきすぎてる感じがするから、

好きじゃない。

生命の源だとか、エロスとかタナトスだとか、そんなことはどうだっていい。

わたしは自分のおまんこにそんなもの感じたことない。

わたしのおまんこはただのおまんこでしかなくて、
それに勝手に意味なんかつけてほしくない。

ヘンリーさんが、
ただ、おまんこはいやらしくてすばらしいんだと、
惚れた女のは最高なんだと、
そう言ったのを聞いて、
嬉しくてめそめそ泣きながら、
わたしは、そういうふうに言ってくれるひとと、
一緒になれたらいいと、心から思った。 

『みんなに好かれようとして、みんなに嫌われる。』という、
仲畑貴志の本を、何年もの間、何度も読んでいる。 


仲畑貴志が、精神的に参ってしまったときのエピソードがいちばん好きで、
そこだけを繰り返し読んでいる。
読み返すたびに驚くが、たった2ページの文章だ。 
「これだけの内容が2ページ」ということに、毎回ぞっとする。

仲畑貴志がなんの精神病を患っていたかはわからない。

「約3年間、希望の無い日々がつづいた。その間、死にたくてしょうがなかった。ロケ先のホテルでも、低い階の部屋を選び、窓が開かないことを確認し、冷たい汗を流す生活。でも、不思議なことに、仕事は猛烈に出来た。しかし、パーになった影響はコピーに出た」

 

そのときに仲畑貴志が書いたコピーが5本、そこに載っている。
どれもふと街で目にしたら泣いてしまうようなコピーだ。
そのあとに、こんな文章がつづく。

「こころの病理に触れるコピーは、恐るべき深度を持って刺さっていく。想像を絶する効果だった。しかし、その社会に届くことばは、その社会が待っていたことばだ。病理に触れるコピーが効果を生む社会は、時代は、やっぱり、少しパーではないか」

本当にすごい。

つらいときには文章なんかいくらでも書ける。
「刺さる」フレーズも書きやすい。自分が求めている言葉だからだ。

それを書けたとして、書けた先に「こんなのは間違ってる」と「こんなのはおかしい」と、言えるだろうかと思う。
 

「8月もまだ上旬の、このクソ暑い時期にもう毛皮かよ」
と、伊勢丹の4階あたりで毒づいたのはつい4、5日前の出来事だったのに、
気がついたらツイードのスカートを買っていた。
生地が厚くて、着られるのはたぶん2ヶ月半ほど先のことだろう。
試着している隙にそっと9cmヒールの、どうしてわかったかわたしの足のサイズにぴったりのベージュのヒールを出され、
それをはいて試着室から出ると、脚をほめられ、
9cmヒールの効果だということはわかってはいるのに、
なんとなく自分が良く見える服のように思えて、
すぐに決めて買ってしまった。 

この服が着れる季節になる頃には、
状況がいいほうに変わっているように、
自分の心が、落ち着いているように、
願いを込めるような気持ちでハンガーにかけ、冬物のコーナーにしまった。

女は買いものの言い訳を考える天才だと思うけれど、
服を買っているのではなく、希望を買っているのです。